■笹川敏幸〜コラム

○音霊「NoWhere」のこと

 ある日、次の小説に取りかかっている、とランディさんから連絡があった。何度かのやりとりの後、音霊を作ってみましょうということになったと思う。きっかけはなんであれ、音霊は本人の強く明確なリクエストがなければ授からない。この音霊を僕が聴きとってから、それがランディさんの手元に届くまでにどれぐらいの時間がかかったのかもう記憶が曖昧だけれど、それは届けられるべき時に届けられた。

 音霊は僕の意志で創るものではない。本人の心が「内なる光」とつながりたいと願った時に、それを導く「光の道」として与えられるのだと思う。条件が揃ってさえいれば音霊の輪郭を受け取り、それ感じることは僕にとっては難しくはない。思い返せば、なぜかそれは子供の頃から出来ていたのだと思う。

 僕は特別な音楽教育を受けたわけでは無い。父は教員だったので幼少の頃、家族は北海道の南部の田舎町に住んだ。海まで走って5分。学校まで徒歩で15分。校舎の裏手には森が広がり、山菜が木の実が豊富で四季を通じて「自然」の遊び場には事欠かなかった。クラスの子供達の90%は漁師の家の子で、皆気性が荒かったがその変わり、あらゆるワイルドな遊びを体験した。皆、野生児だった。学校帰りには森に行く。夏の日曜、天気がよければ必ず海に行く。父は教員なのになぜか漁師と仲が良く、人手が足りない時期などはよく漁を手伝いに行くといって早朝出て行き、家族4人では到底食べ切れないほどの「魚」をお土産に持ってきた。

 夜、布団に入ると僕の意識は遠くに「海鳴り」を聴いていた。駒ヶ岳という活火山の麓の小さな町だった。時折り、強く山から吹き下ろす風が吹くと、ごうごうとすさまじい音がした。海のうねりと、山のうねりが交差する土地だった。僕はいつも「音」のする世界に生きていた。その頃は、別段、音楽を聴くということはなかった。常に音があったから。

 7才から10才までの間、母ななにを思ったのか、僕を音楽教室に通わせた。バスで30分ほどの隣町に教室があり、週に二度、放課後の大切な遊び時間を僕は教室通いの為に犠牲にしなければならなかった。あまり好きではなかったが、なぜか強く反発する気にもならず通い続けた。バスは苦手だった。僕は車酔いしやすかったので、バスの中では必ず気持ちが悪くなった。そんなストレスにも負けず、通い続けられたのは時折り、買い物ついでに母が町までの往復、同行してくれる日があったからだろう。帰りのバスの待ち合いで、母はかならずおやつに「あんパン」を買ってくれた。たしか当時それは30円ほどだったと思う。弟は病弱だったので、僕はなかなか母と二人きりの時間を与えられなかったこともあって、そんな時間がとても楽しみだった。僕にとって教室通いを受け入れる事で、母との時間を占有する時間を代わりに得ていたのだろう。

 10才にもなれば、自我も目覚める。だんだん、女の子ばかりにまじって発表会に出たり、つまらない課題曲をさらったりするのが嫌になった。我が家には、電気オルガンに代わって2段鍵盤に足鍵盤もついた電子オルガンが届けられていた。自宅の中にあるどんな家財道具よりも一番高価だったものを買って貰えて僕は満足しきっていたので、その後、1年もたたずにつまらない教室通いに自ら終止符を打った。

 つまらない音楽とはそれきり遠ざかった。

 中学生になってからは好んでポップスを聴くようになって、フォークソング好きな友人にギターを習った。僕が楽譜をみてコードを鍵盤で押さえられるのを知った友人にピアノで伴奏を頼まれたりするようになる。音楽の先生が授業の時間に当時は先端だったシンセサイザーのレコードを聴かせてくれた。それはドビッシーの曲をアレンジした演奏だった。その色彩感に打ちのめされて、ドビッシーのピアノの原曲に興味を持った。僕は生まれて始めて「ピアノの譜面」を買った。ドビッシーの前奏曲集だった。1年間は前奏曲集の譜面をにらめっこをして、複雑な音符を解読して、電子オルガンでなぞってみる日々が続き、休み時間に音楽教室に忍び込んではピアノで響きを確かめていった。誰も教えてくれなかった「無限の響き」がそこにあった。

 ピアノの中に秘められた可能性に気付いた時に、僕は音楽家になりたいと強い願望を持つようになった。でも、もう道は閉ざされていると思った。音楽家になる人は皆、小さい頃からピアノを習ったり専門教育を受けていると思い込んでいたし、自分のそのような願望を相談できる人もいなかった。父と母も、僕が不安定な芸術家の道を選ぶよりは公務員になって欲しかったのだろうと思う。僕が音楽に熱中し始めると時折り、将来を案じるような言葉を投げ掛けられ「音楽家」にはなれないし、なってはいけないのだと思い込んでいった。

 一方で僕は心の中でいつも「幻聴」を聴くようになっていた。それは強い憧れがもたらすものだと思っていた。子供の頃からずっと眠る時には海鳴りが聞こえていたからだろう。静寂の中に「何か」を聞き取ろうとする耳になっていた。自分の心に「音楽」への憧れが強まるようになると、時折り美しい交響曲やオルガン曲が聞こえるようになった。我が家にはレコードの類いは1枚も無かったし、日常、音楽を聴くという習慣は全く無かった。バッハやモーツァルトやベートーベンを僕は中学の音楽の授業で初めて聴いたのだった。どの音楽も美しいと思ったが、僕の頭の中にはレコードで聴いた音楽よりもはるかに美しく荘厳で穢れなき聖なる音色が時折り聞こえはじめていた。

 僕はそういうことは誰にでもあるものだと思い込んでいた。それは夢うつつの中で聞こえたり、散歩をしてぼんやりしている時などによく聞こえていた。音楽を自分の意志で学び、専門家になりたいと願うようになった時、それらをなんとか「覚えておいて譜面にすることができないのか」と考えた時期があった。高校生になった僕は必死になって音楽理論を独学で勉強した。スコアを書き写してみたり、耳で複雑な和音を聞き取る練習をしてみたり。長くない高校生活、日々の勉強の合間を縫って多くの時間を楽典の自習に割いた。そして、勉強すればするほど絶望するより無かった。なぜなら、僕には絶対音感が無かったから。

 僕は絶対音感を身につけられる限界とされている6才まで、音楽に接したことがなかった。音楽とは無縁の田舎町で育ち、海と風の音しか聴いたことがなかったのだ。なぜか母は音感教育にはもう手遅れの7才から僕を教室に通わせた。せめてあと2年、いや1年早ければ少しでも可能性はあったのだと思う。作曲の方法をかじったりしているうちに、頭の中に聞こえている音を「楽譜」に写し取る為には絶対音感がなければどうしようも無いことを悟った。僕には音楽を聞き取ることはできても、それを「形にする能力」を持てないのだと分かり、おおいに落胆し、人生をそこで一旦あきらめてしまった。僕は中途半端に音楽をかじってろくに受験勉強もしておらず進路は微妙だった。成績と能力のバランスをみて地元の教育大学の音楽過程を選択した。父母の願いと、自分の中に消し難い音楽への憧れとの折衷案的、曖昧な選択肢だった。

 大学3年で教員は向かないと悟り、これもまた独学でマスターしたパソコンの技術を生かしてゲーム制作会社に就職。そこでも「音楽に明るい」ということが幸いして簡単に採用された。そのまま17年、ゲーム業界に在籍することになる。

 ゲーム音楽を作ってみることを通じて、僕は再び自分の心の中に響く「あの音色」を表現する道を再び模索し始める事になる。その間、霊的な感覚が発動してしまい、魂の修行を始めざるを得なくなったりもした。紆余曲折があって'96年についにピアノコンサートを再開する。僕はついに「あの音色」を表現する為に即興演奏という方法を選ぶ。それが僕に与えられた唯一の表現手段だから。

 僕には「心の中で聞こえる音色」をそのまま書き取る技術を得る事ができなかった。それはあまりに美しく心が奪われてしまうので、例え、絶対音感を持ち、全てを記憶できる能力を持っていたとしても、はたしてただ一人の聴衆である椅子を放棄することができたかどうかは怪しいのだが。しかし、即興演奏という手段もまた僕には大きな壁をつきつけた。その音色はちゃんと最後まで聞こえないのだ。それは聞こえ始めた頃から分かっていた。そこに意識を向けると、ふいとそっぽを向いてしまう。そしていつしか楽団は遠ざかってしまう。演奏活動を始めてみると、やはり僕はそのジレンマに直面せざるを得なくなった。何も譜面を用意せず、聴衆を前にして本番の時をむかえる。最後まで弾き通せるかどうかわからない。でも僕は何度も挑戦した。そして、失敗した。

 あの音色を最後まで聞き取る為には、僕には何かが「足りない」と思った。その音色はどこからかやってくるのだという事を少しずつ確信するようになり、それを聞き続けられるようになる方法を模索し始めた。音楽を表現する手段を完成させる為に、僕は瞑想を選んだ。そして、レイキが僕を「内なる光の楽団」との道をつないでくれたのだった。

 ランディさんのこの小説の中で、音霊は僕が名付けた曲名「NoWhere」がそのまま使われ、登場する。主人公の友人であるピアニストが作曲し、贈ってくれたという設定である。そしてその友人であるピアニストは「絶対音感」を失った事になっている。ランディさんは僕が音感を持っているかどうかなんて知らないはずだ。そもそも、そんなことはどうでもいいと思っているだろう。僕が長い年月、音感が無い事でコンプレックスを持っていたなんて想像もしていないはず。この曲名も、音霊が完成した時にこのタイトルは「最初からついていた」ように僕に与えられた。ランディさんがこの作品を現す為に強く願ったからこそ、この音色は「光の世界」から贈られたのだろう。まさしく、彼女へのギフトなのだ。

 音霊を生み出す事の「苦労」を語ればきりがない。自分の心の波が完全に鎮まり、静寂にならなければならない。僕の心に、あの頃のように海鳴りや山から吹き下ろす風の音が聞こえていたら、音色は聞こえてこないのだ。ただ鎮まるのを待つ。そして、それが聞こえてくるのを待つのだ。時には何週間も待たされる。いや、自分が自分を鎮められないのだ。心穏やかになれない時は、光の楽団の音色は遠ざかり、雑音にまみれて聞き取れない。そして、ひたすら静寂を待ち、光の世界から天使達がその音色と旋律とハーモニーをもたらしてくれる瞬間を受け入れる。あとはひたすら、それが最後の一音までこの世界に誕生し終わるのをじっと耐えながら見守るのだ。

 この世界に生まれた音霊は繊細で壊れやすい。すぐにそれに手を触れる事はできない。何日も様子を見守り、自分の心がそれを手放せるようになるまで待つ。生まれたての音色はあまりに愛おしく、不思議で、理解し難く、すぐには向き合うことができないのだ。7日から10日、いやある時は月の暦が変わるのを待つ。そして、自分の心が聴衆ではなく、音霊を仕上げる職人としての意識に切り替わった時に初めて「制作」の過程に取りかかることができる。それから数日をかけて「音霊」は作品として姿を現すのだ。

 僕の人生の全てが音霊の一つ一つに反映されている。僕の魂の履歴の全てが、今この音色を生み出すことへの祈りにつながっている。それをいかにして金額に折り換えて伝えればよいと言うのだろう。その基準は、今の自分の生活の糧を得る為のもの差しがあるに過ぎない。しかし、お金には換え難いものが多すぎるのだ。この音色を理解し、受け入れ、愛してくれるならば、お金など要らない。お金の為に僕は生きているのではないのだ。しかし、依頼する人達は金額で立ち往生する。なぜその壁を乗越えてくれないのだろうか…。本当にわかってくれるのなら、僕はお金など要求はしないのだ…。しかし、光の道につながり、それを受け入れられる人はけっして多くない。だが、全ての人がそれを願っているはず…。ただ残念ながら、僕の人生に与えられている時間は決して多くはない。こんなにも時間がかかるものを、この世界の全ての人に届けることは到底、叶わないのだから。だからこそ、僕は選ばなければならない。必ずこれを受け取ってくれる人を。必ず認めてくれる人を。その方法をいつも模索し続けている。だが、今でもいい方法を見つけられないのだ。

 僕はたしかに「光につながる道」を持ち、その向こうの世界から音色を聞き取り、届ける役割を担うことができる希有な人間なのかもしれない。しかし、僕はマザーのような生き方は選ばなかった。僕はごく普通に俗人なのだ。自分の家族を持ち、自分の生活を持っている。遠くない将来、ハワイに移住しようとも企んでいる。その為に十分必要な糧を得なければならない。膨大な時間を費やさなければ生み出せない、届けられないものをいかようにも無償で行うとは言えないのだ。お金にはこだわってはいない。それにとらわれたくはないから。しかし、僕は生きる糧を必要としている。これは矛盾でもなんでもない。でも、この両極端なバランスを保つことは簡単ではない。

2003.8.18 笹川敏幸



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